堀田正睦

堀田正睦(ほった まさよし)1810年8月30日(文化7年8月1日)〜1864年4月26日(元治1年3月21日)

幕末の佐倉藩(千葉県)藩主。

父は正時,母は源田光寿の娘。

文政8(1825)年藩主となり,奏者番,寺社奉行,大坂城代を経て天保12(1841)年老中となる。

水野忠邦を補佐して天保の改革を推進したが挫折,同14年忠邦と共に辞任。この前後藩政改革を行い,勧農政策を進め,また藩校を拡充して成徳書院とし蘭学の導入を図る。世間から蘭癖と称され,佐倉は関東の蘭学の拠点となった。

ペリー来航後の安政2(1855)年10月老中に再就。阿部正弘が没した同4年6月以降,名実共に幕政の中枢にあった。同年10月ハリスと面接, 日米修好通商条約の草案作成を進め, 12月, 江戸城にて条約締結の不可避を諸侯に演説する。

翌5年2月川路聖謨,岩瀬忠震を連れ上洛, 朝廷に条約調印の了承を求めるが失敗。将軍継嗣には徳川慶喜を要望するとの内勅を与えられ,江戸に帰る。その後, 慶喜擁立に心を傾け朝幕の融和を図ろうとするが,井伊直弼の大老就任ののちは勢力を失い,6月老中を罷免された。翌6年隠居,文久2(1862)年蟄居を追罰され,佐倉城内に屏居した。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」