前田玄以

前田玄以(まえだ げんい)1539年(天分8年)〜1602年7月9日(慶長7年5月20日)

安土桃山時代の武将。

美濃(岐阜県)に生まれる。系譜は不詳。初め孫十郎基勝と称したが,比叡山で出家し,尾張(愛知県)小松寺の住職を務めたと伝えられる。半夢茶, 民部卿法印を号した。

天正7(1579)年には織田信長の嫡子信忠の家臣としてみえる。

同10年の本能寺の変で信忠が自害したとき,岐阜に逃れて信忠の子三法師(秀信)を保護し,三法師が信長の後嗣にされるとその守り役となった。

翌年羽柴秀吉が実権を握ると,信忠の弟信雄から京都奉行に任じられ,市中の民政や寺社に関する庶務をみて大いに実績を上げた。

慶長5(1600)年の関ヶ原の戦まで17年間も在職し続けたが,その精勤ぶりは,就任後1年足らずの間に市中に出した裁決状が70通におよぶことからも窺える(「玄以法印下知状」)。

「智深くして私曲なし」『秀吉事記』)と評された玄以は秀吉の信任厚く,天正13年丹波亀山(亀岡市)5万石を給され,慶長3年には五奉行のひとりに抜擢されている。

秀吉の死後,徳川家康石田三成の対立に際しては三成方に属し,同5年7月17日(8月25日),家康を討つよう長束正家増田長盛らと共に諸大名に命じたが,関ヶ原の戦の間は大坂城にいて戦闘には参加していない。

戦後金剛寺(河内長野市)に謹慎し,同年10月16日(11月21日)大坂で家康に謁して許され,本領を安堵された。妻は信長時代の京都所司代村井貞勝の娘。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」