前野良沢(まえの りょうたく)1723年(享保8年)〜1803年1803年11月30日(享和3年10月17日)
江戸中期の蘭学者,蘭方医。
名はよみす,字は小悦,号は楽山,蘭化で良沢は通称。本姓谷口氏。
中津藩(中津市)藩医前野東元の養子となり,人のしないことをせよという伯父の定藩医宮田全沢の感化を受けて育つ。のちのオランダ語学習もこの性癖によるものであろう。
小柄で若いころはおとなしく平凡だったとも伝えられるが,43歳(一説に46歳)で青木昆陽に入門,オランダ語を学び,明和7(1770)年長崎で百日間通詞に就き,研鑽を積んだ。
長崎で購入した『ターヘル・アナトミア』を携えて,明和8年3月4日杉田玄白らと江戸小塚原の腑分を実見。西洋解剖学の精確さに感嘆,翌日から江戸中津藩邸で同書の訳読を開始した。
良沢は唯一オランダ語を解したので,実質的指導者として一同に教授しつつ,試行錯誤の翻訳を進めた。4年近い苦労の末,西洋医学書の初の邦訳で蘭学の記念碑たる『解体新書』が刊行された(1774)。良沢の名がそこにみられないのは,潔癖で学者肌の良沢が訳書の出来ばえを不満としたためとも,かつて太宰府で己れの功名を決して求めないことを誓ったためともいわれる。
『解体新書』公刊後は杉田玄白らとも疎遠になり,医学,語学,物理,地理, 歴史, 築城など多方面の蘭書の訳述に打ち込んだ。
『和蘭訳文略』『和蘭訳谷』『翻訳運動法』『カ砂葛記』『魯西亜本紀』『和蘭築城書』などの著訳書は生前1冊も刊行されず,写本で流布し,30種余が現存する。なかでも西洋自然科学を「本然学」の名で紹介した『管蠡秘言』は,良沢の学問観,西洋観を表明して興味深い。また漢文訓読法を用いた「蘭化亭訳文式」を含む語学書は,オランダ語学を一応整理, 体系化したもので,後世への影響が大きい。
当時の良沢の名声は諸史料からうかがい知れるが,学問に没頭する「天然の奇士」良沢を,「和蘭の化物」(号蘭化の由来)「元来異人」と呼んで扶助した藩主奥平昌鹿の存在もまた忘れられない。
良沢は交際ぎらいで門弟の教授も好まなかったが,代表的門人に大槻玄沢, 江馬蘭斎がおり,高山彦九郎などとは焼酎を酌み交わして談じたという。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」