長宗我部元親

長宗我部元親(ちょうそがべ もとちか)1539(天文8年)〜1599年7月11日(慶長4年5月19日)

戦国・安土桃山時代の大名。

初名称三郎。土佐国長岡郡岡豊(南国市岡豊)城主国親の長子。

永禄3(1560)年,家を継ぎ,七守護といわれた本山, 安芸,津野などの有力国人を倒し,天正2(1574)年, 三国司の一家, 一条兼定を豊後に追い,翌年には安芸郡東部を制圧し土佐を統一した。

その年から阿波,伊予,讃岐に侵攻,ほぼ四国を掌中に収めた同13年,豊臣軍に攻められて降伏した。それ以前, 元親は徳川家康と結び豊臣秀吉の後方を脅かしていたからである。

土佐一国(9万8000石,通説の22万石は誤り)を安堵され,以後,豊臣氏外様大名となる。

翌年には島津征討の先陣を務め,豊後戸次川の合戦で長子信親以下七百余人の戦死という痛手を被る。

16年正月,叙爵,4月,任侍従,聚楽行幸に供奉。このときは秦姓,のちに羽柴の苗字,豊臣の本姓を授かる。

小田原攻め, 朝鮮出兵に従軍し,伏見で没。土佐浦戸の雪蹊寺に葬る。寺内に宝篋印塔が現存(天甫寺山の宝篋印塔とする通説は誤り)。法名雪蹊恕三。贈正五位, 少将。この間, 天正16年,居城を岡豊から大高坂(高知市), 18年に浦戸(高知市)へと移した。慶長1(1596)年,サン・フェリッペ号が漂着したのはこの浦戸である。

元親の施政で注目されるのは,天正15年よりの一国総検地であり,その正本283冊が高知県立図書館に保存されている。

また,慶長1年制定の「長宗我部氏掟書」は豊臣時代の法であるが,土佐の後進性から戦国の様相もうかがわれ,分国法として著名である。

元親は武勇,寛容, 律義の人であったが,また狭量, 悪逆の人ともいわれる。しかし, 五山僧の過褒とはいえ策彦周良の『雪蹊字説』が「為人不凡庸」「文武略全者也」, 惟杏永哲の『慈容賛』が「明必隣」「和気靄々」とするように,力量,人格ともに優れた武将であったと思われる。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」