北条時政(ほうじょう ときまさ)1138年(保延4年)〜1215年2月6日(健保3年1月6日)
鎌倉幕府の政治家,初代の執権。源頼朝と共に鎌倉幕府をつくる。
伊豆国の在庁官人北条時方と伴為房の娘との間に生まれ,「当国の豪傑」と称された。
伊豆に流されていた源頼朝を娘政子の婿にとったことから頼朝に従って挙兵。
治承4(1180)年4月27日に平氏を討てとの以仁王の令旨がその館にもたらされ,頼朝と時政の手によって開かれたところから幕府は出発したと『吾妻鏡』は語る。
挙兵後,頼朝は鎌倉を目指すが,ここは時政の祖先平直方が源頼義に譲った地である。
石橋山の戦に敗れて長子の宗時を失うが,やがて甲斐源氏を誘い, 富士川の戦で頼朝軍と合体する。
その後は政子に孫の頼家が生まれたことから,頼朝の外威として重きをなしたが,文治1(1185)年11月には頼朝追討の宣旨が源義経に出されたのに応じて,頼朝の代官として大軍を率いて上洛する。
朝廷は義経追討宣旨を出すことでそれに対応したが,時政はさらに諸国, 荘園に守護,地頭を置く権限や兵糧米を徴収することを認めさせ,また頼朝の目指す朝廷政治の改革の方針を伝えてこれを実行させた。こうして朝廷からは後白河法皇の近臣が除かれ,幕府の推す九条兼実が関白となって朝廷政治す は刷新された。
だがその後の京都での時政の動きは頼朝の望むところではなく,一条能保が頼朝代官として上洛したのを受けて任を解かれ,京都の警備を甥の時定に託して鎌倉に戻る。
その後の動きははっきりしないが, 伊豆, 駿河の守護として活動, 文治5年には奥州の藤原氏追討を願う願成就院を伊豆の北条に建立し,奥州合戦に従う。
やがて頼朝の後継者をめぐる動きとともに時政の行動は目立ちはじめ,建久3(1192)年に源実朝が生まれると,その誕生の儀式を行い,翌年の富士野での巻狩りで起きた曾我兄弟の仇討ち事件では,その狩り場の設定者として,また曾我五郎時致が時政の烏帽子子となっていたことなどから,事件への関与も考えられる。
正治1(1199)年1月に頼朝が亡くなると,政子とともに頼家を補佐して幕府政治を主導した。
建仁3(1203)年政所別当, 執権。頼家の親裁権を削減するとともに御家人の意見を幕府政治に反映する体制を築き,自らは頼家の後見として遠江守に任じられた。
しかし頼家の側近の勢力を排除するなかで,頼家の外戚となった比企能員と対立が生じ,これを自邸に誘って謀殺し,実朝を将軍に据えて政所別当となって幕府の実権を握った。
しかし子の義時や政子と路線が合わず,後妻牧の方の娘婿となっていた源氏の平賀朝雅を将軍に擁立することを計って失敗, 伊豆に引退させられその地で亡くなる。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」