源頼家

源頼家(みなもとのよりいえ)1182年9月11日(寿永1年8月12日)〜1204年8月14日(元久1年7月18日)

鎌倉幕府の第2代将軍。

幼名万寿, または十幡(万)。源頼朝北条政子の長男として,鎌倉比企谷第に誕生。

鎌倉若宮大路の段葛はこの折の安産を願い,頼朝みずから御家人を指揮して造らせたものという。

頼朝が長男に寄せる期待は大きく,建久4(1193)年の富士の大巻狩りで頼家に鹿を射止めさせたのは, 関東御家人への家督披露のためであり,同6年の上洛に同伴参内した行為には,幕府の後継者として朝廷の認知を得る意図が込められていた。

正治1(1199)年1月, 父の死により頼家が鎌倉殿の地位を相続,頼朝の遺跡継承を認める宣旨を受け,建仁2(1202)年7月には征夷大将軍となった。

当初頼家は,頼朝晩年の対朝廷政策を受け継ぎ,妹三幡の入内実現に努めたようだが,父と同じく宮廷の野心家土御門通親に乗ぜられ,再度の失政を招いた。

幕府内にあっては,まもなく訴訟の直断を停止され, 外祖父北条時政以下13人の宿老による合議に移された。頼家はこうした処置に抵抗を試み, 近習を極端に厚遇し,強引な訴訟指揮に打って出たりしたが,幕府の史書『吾妻鏡』に, 蹴鞠に熱中し数々の「乱行」をくりかえしたとされていることは,すでに人心が離反した事実を示す。

ついに建仁3年8月, 北条時政は頼家が急病に陥った間隙を突いて将軍権力の(頼家の弟千幡,のちの実朝と子一幡への)分割譲与を画策,頼家の舅能員ら比企一族を挑発し9月一幡もろともにこれを屠った。

新将軍には実朝が立てられ, 執権時政が幕政を主導することとなるが,頼家は出家のうえ伊豆修禅寺に幽閉, やがて北条氏の討手により殺害された。この事件に取材した岡本綺堂の『修禅寺物語』は新歌舞伎の古典として名高い。

墓所は修善寺町指月殿の傍らにあり,自筆の『般若心経』が伊豆三島大社に遺っている。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」