徳川家宣(とくがわ いえのぶ)1662年6月11日(寛文2年4月25日)〜1712年11月12日(正徳2年10月14日)
江戸幕府第6代将軍。
甲府25万石の領主徳川綱重とその側室於保良(長昌院)の長子。
初め家臣新見正信に養育されて新見左近と称し,寛文10(1670)年綱重の嗣子となって松平虎松と改めた。
延宝4(1676)年に元服して従三位左近衛権中将に叙任され,綱豊と称す。6年綱重の死後家督を相続し,8年参議,正三位に昇り,さらに10万石を加増されて35万石を領した。
元禄3(1690)年権中納言に昇進。
宝永1(1704)年叔父の5代将軍綱吉の養嗣子となり,諱を家宣と改め,翌2年従二位権大納言に叙任。6年綱吉没後,48歳のとき将軍となって正二位内大臣に叙任されたが, 在職4年にして没した。
甲府藩以来の側近である側用人間部詮房や儒者新井白石を重用して政治の刷新を図り,後世「正徳の治」と称された。
好学の人であり,また猿楽を好み,性格は寛仁でありながら,英断の人でもあったという。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」