足利義昭(あしかが よしあき)1573年12月5日(天文6年11月3日)〜1597年10月9日(慶長2年8月28日)
室町幕府最後の将軍。
在職期間は永禄11(1568)年から天正1(1573)年まで。
義晴の次男で義輝の弟。母は近衛尚通の娘慶寿院。初名義秋。左馬頭, 参議左中将, 権大納言。法名覚慶, 昌山。
天文11(1542)年母の兄近衛植家の猶子となり興福寺一乗院に入室,同院門跡権少僧都に就任した。
永禄8(1565)年兄義輝が暗殺されると同院内に軟禁されたが, 朝倉義景らの援助で同年7月脱出。
はじめ近江甲賀の和田惟政を頼り,次いで若狭武田氏, 越前朝倉氏のもとに流寓したが上洛の援を得られず,同11年7月美濃に入り織田信長の食客となる。
同年9月信長に擁立されて入京し, 15代将軍に就任した。
しかし信長は義昭の下風に立つことを嫌い, 義昭が呈示した副将軍や管領就任を拒絶し, 独自に畿内支配を進めた。そのため親裁権を主張する義昭は信長としばしば対立し,義昭の傀儡化を図る信長は、永禄12年1月に「殿中掟」, 元亀3(1572)年9月には「意見」という形で権力撃肘を加えている。
信長との手切れを決意した義昭は武田晴信(信玄),上杉輝虎(謙信)らと結び,浅井朝倉, 本願寺を巻き込む反織田戦線を結んだ。
同年秋晴信が西上したことで義昭の立場は強まり,翌年4月, 正親町天皇の調停でいったん講和が成る。
しかし信玄横死の報が伝えられた翌々月には立場が逆転。打倒信長の妄執と信玄生存に賭け7月宇治槙嶋城に蜂起した義昭はわずか17日で信長軍に屈し,実子義尋を質に差し出して河内若江に退去,ここに室町幕府は倒壊した。
以後も紀伊由良, 備後騎と流寓し,毛利氏を頼って再起を図るも果たさず,天正8年の本願寺降伏で義昭の壮図も絶望的となる。
同13年豊臣秀吉の関白任官で将軍復位を断念した義昭は,3年後上洛して槙嶋に寓居し,出家して昌山と号し,朝廷からは准后の待遇を受けた。
文禄の役に従軍したが,慶長2(1597)年大坂で病死。形骸化した将軍権力と謀略を手掛りに,信長に抵抗した人物として個性的である。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」