梶井基次郎

梶井基次郎(かじい もとじろう) 1901年(明治34217日)〜1932年(昭和7年3月24日)

小説家。

大阪府生。宗太郎・ひさの次男。東京大英文科中退。

幼少時、安田合名社員であった父の転勤に従い、東京・鳥羽・大阪と移り、大正8年北野中学を卒業、同年9月、三高理科に入学した。

寄宿舎生活で中谷孝雄・飯島正らと知り、夏目漱石谷崎潤一郎に傾倒するなど文学への関心を深めゆく一方、肋膜炎にかかり、学業を怠ると共に頑廃的生活へと耽溺した。

大正13年3月、三高を卒業、4月、東京帝大英文科に入学し、上京。翌14年1月、中谷・外村繁らと同人雑誌「青空」を創刊、『檸檬』『城のある町にて』『ある心の風景』『Kの昇天』『冬の日』などを発表した。

大正15年、病状が悪化、卒業を断念し、同年末から伊豆湯ヶ島温泉で療養生活に入った。『春宮』(3)『この話』(3)『桜の樹の下には』(3)など湯ヶ島での作品は、東京時代の抒情的作風から存在論的作風へと展開した。『冬の蠅』(3)はその傾向の頂点をなす作品である。

当地で川端康成などの知遇を得た。昭和3年5月、生活の再建を期して上京したが、病状は悪化する一方で、同年9月、大阪の両親の家に帰った。

この頃、『資本論』や西鶴を愛読。昭和5年から6年にかけて『愛無』『闇の絵巻』『交尾』を発表。『交尾』のその一を除い湯ヶ島時代の素材によるもので、名品と呼ぶに足る清澄な気品をたたえている。

昭和6年5月、友人淀野隆三・三好達治らの尽力で小説集『檸檬』が刊行された。

昭和7年1月「中央公論」に『のん気な患者』を発表、孤独・絶望の影の濃い湯ヶ島時代の作品とは異なり、人生を正面から見据えようとしたものであるが、3月中旬、病状が革まり、まもなく没した。

生前は無名に近い存在であったが、その深い自己凝視と、微妙な感受性の定着による詩的完成度の高さにより、没後、高い評価を得ている。 

出典: 明治書院「日本現代文学大辞典」