後醍醐天皇(ごだいごてんのう)1288年11月26日(正応1年11月2日)〜1339年5月25日(暦応2年/延元4年4月16日)
鎌倉末・南北朝初期の天皇。
後宇多天皇の代2子。母は談天門院藤原忠子。乾元乾元1(1302)年王親宣下。諱は尊治。嘉元2(1304)年大宰帥となり帥宮と呼ばれた。
大覚寺・待明院両統に分裂した天皇家の中で,大覚寺統の後宇多は第1子後二条天皇の子邦良の即位を望み,邦良幼少時の中断として延慶1(1308)年尊治は持明院統の花園天皇の皇太子に立つ。
儀式典礼に関心深く,学問・和歌にも意欲的な尊治は,一生の間に20人前後の女性に40人近い子女を生ませるという絶倫な精力の持ち主であった。
文保2(1318)年に即位した尊治は宋学に傾倒,君主独裁を目指し,生前に自らの諡号を後醍醐と定め,元亨1(1321)年に親政を開始すると記録所を中心に専制的な政治を展開する。翌年,京都の酒屋に課税,洛中の地子を止めて京を天皇の直轄下に置き,神人に対する寺社の公事を停止してその供御人化をはかるなど,発展しつつあった商業・通流に王権の基盤を置こうとする後醍醐は,綸旨に万能の力を与え,家格と官位の固定化の打破,朝延の完司請負による運営の変革をはかった。
こうした後醍醐が,天皇位を左右している鎌倉幕府打倒に突進するのは当然で,律僧文観を通じて楠木正成を引き入れ,伊賀兼光などの幕府の要人,美濃源氏もこの討幕計画に加わったが,正中1(1324)年幕府に洩れて失敗する。
後醍醐は窮地に立ったが元徳2(1330)年,米価・酒価の公定,関所停止令により商工民を引きつけ,南都北嶺に自ら足を運んでこれを味方に引き入れ,北条氏の流通路支配に反発する悪党・海賊の支えを期待,元弘1(1331)年に再び挙兵するが捕らえられて隠岐に流された。
しかし護良新王,正成の軍事行動に呼応して後醍醐は同3年に隠岐を脱出,船上山で兵を集め,足利尊氏の内応を得て幕府を滅ぼし,建武新政府を樹立した。
以後,建武3/延元1(1336)年にそれが崩壊するまで,後醍醐は公家・武家をあわせ支配し,大内裏を造営,著書『建武年中行事』『建武日中行事』のように天皇中心の儀式典礼を整え,諸国の一宮,二宮および国分寺を天皇直轄とするなど天皇の専制を強化,腹心の貴族・武士で構成した記録所・恩賞方を通じ綸旨絶対の政治を推進し,宮司請負制・知行国制を打破し,家格無視の人事により銭貨・紙幣の発行を企図,徳政により貸借関係を整理する一方,地頭領の所出の20分の1を微収,その運用を京都の土倉にゆだねるなど,商業・流通に依存する元亨以来の政策をさらに推進した。
天皇の立場にあって自ら密教の行者としてしばしば祈壽を行った後醍醐は僧衣を黄色に統一しようとし,寺院・僧侶にもその意志を貫こうとした。
しかし貴族・武家・僧侶の慣習を無視した政治に対する反発を受けて次第に後退,足利尊氏・直義の反乱により政府は瓦解した。後醍醐は吉野に逃れて南朝を立て,室町幕府・北朝に対抗したが京都回復の夢を果たせぬまま吉野で死んだ。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」