織田信秀

織田信秀(おだ のぶひで)1511年(永正8年)〜1551年4月8日(天文20年3月3日)

戦国時代の武将。

織田弾正忠信定(貞)の子。織田信長の父。通称三郎。官途・受領は,はじめ弾正忠,晩年には備後守を称した。

尾張清須城主下4郡守護代織田大和守の一族で, 清須三奉行のひとり。本拠の城は海東郡の勝幡城で,近くに津島社の門前町として,また湊町として繁栄していた津島があり,それを支配したことから経済力をつけ,次第に他の織田一族を凌駕していった。

天文2(1533)年ないし7年ごろ,連歌にことよせた奇計で今川氏豊を那古野城から逐い,この城を本拠にし,生まれたばかりの信長をそこに置いて,自らはもうひとつの経済的基盤となる熱田を押さえるため,古渡城を築いて移った。

そのころにはすでに主家清須織田氏だけでなく,守護斯波氏を圧倒し,尾張を代表する勢力になっていた。

天文11年には三河の小豆坂で今川義元と戦い,同16年には美濃の稲葉山城下まで攻め込んで,斎藤道三と戦い,敗れている。腹背に敵を持つ不利を考え,道三とは和睦,道三の娘濃姫を信長の嫁に迎えている。

同18年には犬山城の織田信清(信秀の弟信康の子)が反乱をおこし,三河の安祥城が今川義元に奪回されるなど,内外ともに苦しい状況のなかで,流行病で没した。没年については,天文18年説,同21年説もある。家督は3男の信長が継いだ。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」