大塩平八郎

大塩平八郎(おおしお へいはちろう)1793年3月4日〜1837年5月1日

大塩平八郎は「大塩平八郎の乱」を起こしたことで知られる、江戸時代後期の儒学者。元大阪東町奉行与力。

大塩家は代々大阪東町奉行与力を務めており、平八郎も大塩家8代目として大坂町奉行組与力を務めた。1830年38歳で退職するまで職務に精励し名与力と評された。一方学問に励み陽明学を修めたが、その師は不詳で、独学であったという説が最有力となっている。隠居後は学業に専念し、与力在任時に自宅に開いていた私塾〈洗心洞〉で子弟を指導した。

天保7年(1836年)の飢饉(天保の大飢饉)において東町奉行跡部山城守良弼にしばしば対策を建言するも却下され、意を決して翌8年2月初め市中賑給のため自己の蔵書を売り払い620両余を得、ひそかに近在農民に挙兵の檄文を撒き、2月19日朝蜂起するが1日で鎮圧された(大塩平八郎の乱)。平八郎は潜伏し、約40日後市中油掛町美吉屋にて捕吏に迫られ自焼自尽した。

大塩の挙兵は半日で鎮圧され失敗に終わったが、幕府の元役人だった大塩が大阪という重要な直轄地で反乱を起こしたことは、幕政に不満を持つ民衆たちに大きな衝撃を与えた。大塩の発した檄文は幕府に反感を持つ庶民たちの筆写によって全国に伝えられ、その後備後三原(4月)、越後柏崎(6月)、摂津能勢(7月)などで挙兵呼応の動きがあった。他にも全国で同様の乱が頻発し、その首謀者たちは自らを「大塩門弟」「大塩残党」などと称した。