大塩平八郎の乱

1837年(天保7年)、元大阪町奉行与力の大塩平八郎らが救民のため江戸幕府に起こした反乱。

天保の大飢餓の影響により1836年(天保7年)は未曾有の大飢饉に陥っていた。この打ち続く凶作・飢饉により米価高騰し、大阪市中には飢餓による死者が続出した。元大阪町奉行与力であり陽明学者であった大塩平八郎は、こうした市中の惨状を無視できず、しばしば町奉行に救済対策を建言したがことごとく拒否された。平八郎は仕方なく自らの蔵書5万冊を全て売却し、得た資金を持って市民の救済にあたっていた。一方で、当時の大阪東町奉行跡部山城守といえば適切な対策を出さないばかりか、幕府から儀式のため江戸廻米の命令を受けると、市中の惨状を無視してそれに応じてしまう。

こうした大坂町奉行諸役人と、この状況下でも米の買占めを図っていた特権豪商を誅伐し、その隠匿の米殻と金銭を窮民に分け与えるため、平八郎は挙兵を決意する。武装蜂起に備えて家財を売却し、大砲や爆薬などを整え、私塾の子弟に軍事訓練を施し、豪商らに対して天誅を加えるべしと自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し参加を募った。

1837年2月19日、門弟二十数名と共に「救民」の旗印を掲げ、自邸に火を放ち反乱を開始した。天満で火災が発生したら駆けつけるようにと檄文に記しており、豪商が軒を並べる船場にて、三井呉服屋や鴻池屋などの豪商を襲った頃には300人ほどの勢力になっていた。しかし、鎮圧に出動した幕府勢と内平野町で衝突すると、たちまち幕府勢に蹴散らされ四散する。次いで淡路町周辺でも両勢が衝突したが、大塩勢は壊滅し、決起はわずか半日で鎮圧された。

平八郎は約40日後、市中油掛町美吉屋にて捕吏に迫られ自焼自尽した。この乱は幕政中枢の都市大阪で、しかも元与力であり著名な陽明学者であった人物が首謀したことにより、その影響は大きかった。幕政担当者はこれを契機に天保の改革に取り組み、一般民衆の中では「大塩残党」を名乗る騒動などが連鎖反応のように全国各地で起こった。