山内豊信(やまうち とよのぶ − ようどう)1827年11月27日(文政10年10月9日)〜1872年7月26日(明治5年6月21日)
幕末維新の大名。土佐藩士。
幼名輝衛、のちに兵庫助。号は容堂。
前藩主豊惇の急死により、宗家を継ぎ、1848年(嘉永元年)藩主となる。吉田東洋を登用して藩政改革を実施、松平慶永らと共に幕政にも参加。1858年(安政5年)将軍継嗣問題では一橋(徳川)慶喜の擁護をはかったが、大老井伊直弼との政争に敗れ、翌年隠居・謹慎を命じられる。
やがて、時局の変転により、再び政界に出て公武合体運動で尽力。藩内では1863年(文久3年)土佐勤王党を弾圧し、武市瑞山らを処断。また殖産興業、富国強兵に努めた。1867年(慶応3年)後藤象二郎の進言を受け、大政奉還を将軍徳川慶喜に建白し、実現させた。その後も徳川氏の権力保全に腐心したが王政復古から鳥羽・伏見の戦いで望みを断たれた。
維新政府の議定、内国事務局総督、刑法官知事、学校知事、制度寮総裁、上局議長を歴任し、1869年(明治2年)7月に麝香之間祗候の優待を受け隠棲した。書や詩文をよくし、酒を好んだ。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」,新潮社「新潮日本人名辞典」