福沢諭吉

福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)1835年1月10日(天保5年12月12日)〜1901年(明治34年)2月3日

幕末から明治中期の日本を代表する開明的思想家。教育者、ジャーナリスト。

大坂の豊前中津藩蔵屋敷に生まれる。百助の子。2歳の時に父と死別、母に連れられて中津に帰り、身分にこだわらず人々に優しい母親の感化の下に育った。

13,4歳の頃から漢学を学んで頭角を現す。安政1年(1854年)長崎に赴いて蘭学を学び、翌年大坂に出て緒方洪庵の適塾に入門、やがて塾長を務めた。5年江戸に下り、鉄砲州の中津藩邸内に蘭学塾を開く。翌年、横浜に遊んで英学の重要性を痛感、英学の学習を始めた。万延1年(1860年)幕府の軍艦咸臨丸の艦長の従僕を志願して渡米。また文久2年(1862年)幕府の遣外使節に随行、欧州各国の事情、歴史、思想を学び、その経験をもとに『西洋事情』初篇(1866年)を著した。慶応3年(1887年)幕府の軍艦受取委員の随員としてアメリカ東部諸州を視察して帰り、『西洋事情』外篇(1868年)『世界国尽』(1869年)などを刊行して、大衆の啓蒙に寄付した。

明治1年(1868年)塾を芝新鮮座に移し、「土民を問わずいやしくも志あるものをして来学せしめん」と、名称を慶応義塾とした。この義塾での教育を中核として、国民ひとりひとりの独立自尊にもとづく国家の発展と繁栄を目的とし、政治、経済、社会、言論などの諸領域にわたる活発な思想活動を展開した。『学問のすゝめ』初編(1872年)は、身分の上下、貧富の隔てなく学問が重要であると、それによって「一身独立」「一国の独立」が得られることを説いたものであるが、時代の共感を呼び、第17編(1876年)まで書き継がれて総発行部数340万に及んだ。

だが、まず国民の自覚と自立が大切という彼の主張は、当時のもっぱら国家主導による国民の啓蒙を目指す主張と決定的に対立し、その後の日本近代化の国家主義的性格を予言的に警告した結果ともなった。公に言論を開陳することに重要性を指摘して、慶応義塾に演説館を設け(1874年)率先して範を示したのもこの頃である。

『文明論之概略』(1875年)は、諸国の文明を比較的に論じながら、自由な交流と競合による民心・衆心の発達によって日本が文明国として独立しうることを説いた傑出した文明論である。明治12年には西周加藤弘之らと東京学士会院(のちの日本学士院)を創立、初代会長となる。13年には知識の交流と世務の諮詢を目的とする交詢社を設立。15年には『時事新報』を刊行、以後同紙に「脱亜論」等重要な論説を発表する。

この間の福沢の判断、論評、提言などは多彩多岐にわたり、反響もさまざまであったが、もっぱら日本人ひとりひとりの「独立自尊」の実現を目指すところに、その発想の特異性を持っていた。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」,新潮社「新潮日本人名辞典」