徳川家光

徳川家光(とくがわ いえみつ)1604年8月12日(慶長9年7月17日)〜1651年6月8日(慶安4年4月20日)

江戸幕府第3代将軍。

2代将軍秀忠の次男(長男長丸は早世)。母は秀忠の正室淤江与(水源院)。幼名竹千代。

父母が弟の忠長を偏愛したため世子の地位は必ずしも確定していなかったが,家光の乳母春日局の嘆願をうけた家康の指示で世継ぎとなる。

元和6(1620)年元服。9年父秀忠と共に上洛し,将軍宣下を受けた。政治の実権は江戸城西の丸にあった大御所秀忠が握っていたが,秀忠は将軍の地位を尊重し,政務に関しては西の丸年寄筆頭の土井利勝と本丸年寄筆頭の酒井忠世の豪意を義務づけた。

寛永9(1632)年秀忠が死去すると,実質的な代替わりとして,10年諸国巡見使の派遣,11年上洛,朱印改め,12年武家諸法度の改訂などの行事を遂行,政務については年寄酒井忠世,土井利勝,酒井忠勝の3人の合議を義務づけ特定人物に権限が集中するのを避け,幼少期から小姓として仕えた稲葉正勝(11年死去),松平信綱,阿部忠秋,堀田正盛などを年寄に昇格させ,各役職の権限を定め,評定所の機構を整備するなど,幕府機構の整備に努めた。また,貿易体制を整備するとともに,キリシタンの禁制を強化し,12年日本人の海外渡航を禁じ,13年ポルトガル人との混血児を国外に追放した。15年,天草・島原のキリシタンの一揆を鎮圧した家光は,16年ポルトガル人追放を決定,18年にはオランダ人を長崎出島に移して管理を強化した。

家光が,その親政初期に謀反の嫌疑で肥後国熊本藩主加藤忠広を改易し,弟忠長を自害させるなどの措置をとったことと,病弱で神経質な性格であったことが,年寄や諸大名を恐怖させ,時代の流れにも助けられて家光自身の意図する幕府権力の強化と機構の整備が比較的スムーズに進んだ。法号大猷院。日光山に葬られた。室は鷹司信房の娘。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」