小石元俊

小石元俊(こいし げんしゅん)1743年11月1日(寛保3年9月16日)〜1809年2月9日(文化5年12月25日)

江戸後期の医者、解剖家。関西への蘭学導入者。

名は道、元俊は通称。字は有素、号は大愚。

父浪人中に京都の桂村で生まれる。家計補助のため10歳のとき、大坂にいた九州柳河藩医淡輪元潜に、のち元潜の友人で長門の人永富独嘯庵に医を学び頭角をあらわす。京都に移住し、皆川淇園に漢学を学び、河内の高僧慈雲に参禅した。その後、西国を漫遊し医技を磨いた。

明和6年(1769年)大坂に開業、また京都に移住して天明3年(1783年)橘南谿らと伏見で解剖を行い『平治郎解剖図』を作成。元俊の識語はわが国最初の病理解剖学的記載といわれる。同6年江戸で杉田玄白大槻玄沢らと親交、玄沢邸に寓居もした。同8年京都で大火にあい大坂へ移居したが、寛政8年(1796年)から京都釜座通竹屋町に住み、そこで医学塾究理堂を開設した。

真の医理は西洋医学のうちにあることを悟り、親試実験として数回の人体解剖を行う。著に『究理堂医訣』『黴毒握機訣』『妊娠究源』など多数。医説をまとめた『元衍』は焼失した。

出典:新潮社「新潮日本人名辞典」朝日新聞社「日本歴史人物辞典」