大槻玄沢(おおつき げんたく)1757年11月9日(宝暦7年9月28日)〜1827年4月25日(文政10年3月30日)
江戸中期の蘭学者。蘭方医。
名は茂質、号は磐水、玄沢は通称。陸奥岩井郡生まれ。一関藩医玄梁の子。
安永7年(1778年)に江戸遊学を許されて杉田玄白の門に入り、医術を修めるかたわら、前野良沢に蘭語を学んだ。天明5年(1785年)10月に長崎遊学の途につき、翌年5月帰府し、まもなく本藩仙台藩の藩医に抜擢されて江戸定詰となった。これを機に家塾芝蘭堂を設け、橋本宗吉、稲村三伯、宇田川玄真、山村才助らを多くの俊才を育てた。
他方、師の玄白の意を体して、ハイステルの外科書の序章(『痬医新書』)の訳述および本文の抄訳にたずさわり、次いで師命によって寛政2年(1790年)『解体新書』の改訂に着手、文化1年(1804年)にいちおう完了した。『重訂解体新書』(1821年)がこれである。
同年、ロシア使節レザーノフが仙台藩領の漂流民4名を伴って長崎に来航したが、翌年3月交易を拒絶されたため、漂流民を残して退去した。仙台藩は彼らを引き取り、玄沢は藩命でこれら漂流民の事歴を聴取して、これを基に『環海異聞』を著し、藩主に献上した。
北方海域でロシア船の暴行事件が頻発し、仙台藩が出兵を命ぜられた文化4年(1807年)のことである。フランス革命に端を発するヨーロッパの動乱が東アジアにおよびつつあることを玄沢は知っていただけに、ロシアと同盟関係にあるイギリスの東アジア進出に危機感をいだき、『捕影問答』を著して、これを伊達家出身の若年寄堀田正敦に呈上した。意見は幕閣で取り上げられ、その結果、蘭館長ドゥーフへの質問が繰り返し行われるなど、幕府の対外政策に深くかかわることになった。
文化8年に幕命により、『厚生新編』の名で知られるショメールの百科事典の翻訳にたずさわり、のちにその写本をひそかに自藩の庫に収めた。これが『生計纂要』と改名されて、今日まで伝えられている。こうして玄沢は、その後半生を通じて、本格的な医学研究から外れた道を歩み、その生涯を閉じた。
江戸高輪の東禅寺に葬られた、著作は静嘉堂文庫、早稲田大学洋学文庫に収められている。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」,新潮社「新潮日本人名辞典」