楠木正成(くすのき まさしげ)生年不詳〜1336年7月4日(建武3/延元1年5月25日)
鎌倉末・南北朝初期の武将。
橘正遠の子というが出自末詳。河内金剛山の麓を本拠とする。楠木氏は武蔵国御家人出北条氏の被官となり,得宗領河内国(大阪府)観心寺地頭職にかかわって河内に移ったものと推定される。
元亨2(1322)年,正成が得宗北条高時の命で,紀伊国(和歌山県)保田壮司湯浅氏を討ち,阿弖河荘を与えられたという『高野春秋編年輯禄』の記事は恐らく事実であろう。得宗被官でありながら正成は律僧文観,これに心服する醍醐寺報恩院道祐の動きかけで,後醍醐天皇の討幕計画に加担,元徳3(1331)年2月,後醍醐が道祐に与えた和泉国若松荘に所領を得た。
この年,後醍醐が挙兵すると正成は「悪党楠兵衛尉」として鎌倉幕府の追及を受け,赤坂城で幕府軍と戦って敗北,身を隠すが正慶1(1332)年末に後醍醐・護良親王から与えられた左衛門尉の官途を名乗って紀伊北部に出現,湯浅氏と戦ってこれを味方とし,翌年摂河泉に進出,天王寺,赤坂城,千早城などに幕府の大軍をひきつけ,野伏を駆使し,飛礫を打つなどの悪党的戦法によってこれを悩まし,後醍醐の討幕を成功に導いた。
この大功により,後醍醐の新政府のなかで正成は記録所,恩賞方,雑訴決断所などの重要機関に名を連ね,検非違使,河内守,河内・和泉の守護となり,河内国新開荘,土佐国安芸荘,出羽国屋代荘,常陸国(茨城県)瓜連など多くの所領を与えられ,名和長年,結城親光,千種忠顕と共に,三木一草のひとりとしてもてはやされた。
しかし建武1(1334)年の護良失脚後は,紀伊藤飯盛山の北条氏与党の反乱鎮圧に出動しているが,まもなく斯波高経と交替するなど,その動きは精彩を欠く。延元1(1336)年,新政府に反した足利尊氏・直義が入京するや,一旦はこれを九州に追ったが,尊氏と手を結ぼうとする献策が朝延に容れず,敗北を見通しつつ再挙東上してきた尊氏・直義の軍を兵庫の湊川で迎え撃ち,敗死した。
『太平日記』は正成を悪党的武将の典型として,その怨念に満ちた凄絶な最期までを生き生きと描き,後世に強い影響を与えた。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」