源義仲(木曽義仲)

源義仲(みなもとの よしなか)1154年(久寿1)〜1184年3月4日(元暦1年1月20日)

平安時代末期の武将。

源為義の子義賢の次男。母は遊女と伝えられる。幼名駒王丸。木曾冠者と号す。

久寿2(1155)年8月,為義とその嫡男義朝の不和が昂じ,父の意を体して上野・北武蔵に威勢を張っていた義賢は,鎌倉を本拠とする義平(義朝の長男)に武蔵国大倉館(埼玉県嵐山町)で討たれた。義仲は乳母の夫である中原兼遠のもとにかくまわれ,信濃国木曾で成長した。

治承4(1180)年9月,頼朝(義朝の3男で嫡子)にやや遅れて挙兵した義仲は,平氏方の小笠原頼直を越後に迫って信濃を手中に収め,父の故地上野に進出したが,頼朝の勢力との衝突を避け,年内に信濃へ戻った。翌年には,横田河原(長野市)で越後の城氏の大軍を,越前水津(敦賀市杉津)で平氏の追討軍を破り,北陸道をほぼ制圧した。

寿永2(1183)年,嫡子義高の身柄を鎌倉に託して頼朝と講和した義仲は,平維盛率いる大軍を加賀・越中国境の倶利伽羅峠,次いで越前篠原(加賀市)に撃破した。ここで踏みとどまっていれば,関東における頼朝のごとく,北陸道政権への道が開けたかもしれないが,結局義仲は,都から越中にかけて形成されていた反平氏の寺社・武士連合勢力に吸引されるようなかたちで,7月に入京した。義仲は,従五以下左馬頭兼越後守,次いで伊予守に任じられ,平氏追討の院宣を受けた。

こうして一時は,西海に走った平氏,東海道諸国を押さえた頼朝と並んで「天下三分の形勢」を示したが,平粮米の微収問題,安徳天皇のあとの皇位に義仲が擁する北陸宮(以仁王の遺児)を強く推薦したこと,「寿永二年十月宮旨」の適用範囲などをめぐって,とかく頼朝との接近をはかる後白河法皇と対立を深め,ついに同年11月,クーデタを断行,法皇を幽閉し翌元暦1(1184)年1月には,みずから征夷大将軍に任じた。

しかし頼朝の命を受けて西上した源義経・範頼軍との決戦に敗れ,逃走の途中,近江国粟津(大津市)で戦死した。世に義仲を旭将軍と称し,その供養墓は大津市馬場の義仲寺にある。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」