後白河天皇

後白河天皇(ごしらかわてんのう)1127年10月18日(大治2年9月11日)〜1192年4月26日(建久3年3月13日)

平安末期の天皇。

鳥羽天皇と待賢門院との間に第4皇子として生まれ,保延5(1139)年に元服したが,皇位継承の可能性はなく,今様に明け暮れ始める。

著作『梁塵秘抄口伝集』は「十余歳の時より今に至る迄,今様を好みて怠る事なし」と記す。「国々の上手はいはず,今様をうたふ者」と広く今様を通じて交流した。そのなかで皇位継承を考えたのが「和漢の間に比類無きの暗主なり」と評したという乳父の藤原信西である。

近衛天皇が亡くなると,「即位の器量にはあらず」という評判をはねのけ,久寿2(1155)年7月に位につけた。

翌年7月に鳥羽天皇が亡くなると,保元の乱により崇徳上皇と藤原頼長の勢力を破り,その立場は不動のものとなった。乱後,意欲的な政策が展開されたが,これらに直接にかかわった形跡はなく,信西が宣旨,綸旨を利用して思うがままの政治を行なった。

保元3(1158)年に退位して,子の二条天皇に譲位。上皇として院政を開始するが,のちに院近臣の藤原信頼を寵愛したことから近臣間の争いが生じ,平治の乱が起きて信西を失い,平清盛が乱後の実権を握る形で院政は進められた。

多年の宿願であった観音一千一体の蓮華王院の造営が清盛の尽力でなり,清盛の義妹(建春門院)を寵愛するなか,平氏と結んで政界は安定した。

嘉応1(1169)年出家して法皇となる。だが建春門院が安元2(1176)年に亡くなると,政治的な安定は終わって,近臣と平氏の争いが激化し,治承1(1177)年には鹿ケ谷の事件が起き,3年には清盛のクーデタが起きている。

しかし清盛が後白河を鳥羽殿に押し込め,安徳天皇の即位を強行したことは平氏の大きな失敗となった。出家前から袈裟を着て,護摩をたくなど,仏法に帰依していた法皇を退けたことは平氏を仏敵となしてしまい,安徳天皇の即位は他の皇統に繋がる人々の反発を買った。4年5月の以仁王の反乱はそのふたつを根拠にして起こされた。

この失敗に気づいた平氏は,高倉上皇が亡くなった5年1月に後白河院政の復活を望み,法皇を正面に押し立てて諸国の反乱に対処するに至った。同じくその存在に着目した源頼朝も,以仁王に代わる朝威をもたらす存在として接近を図った。後白河自身に政治的な統合の意思があったわけではないが,様々な勢力が接近を求めてきてそこに新たな時代が生まれた。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」