織田信長(おだ のぶなが)1534年(天文3年)〜1582年6月21日(天正10年6月2日)
戦国・安土時代の武将。
幼名吉法師。三浪。官は,上総介,弾正忠,尾張守,参議,権大納言兼右大将,内大臣,右大臣と進み,位は従五以下から正二位に上る。尾張那古野城(名古屋市)城尾張那古野城(名古屋市)城主織田信秀の子。
天文20(1551)年信秀の死により家督を継ぎ,上総介と自称。青年期の信長の朝延軽視が窺われる。弘治1(1555)年織田信友を討って清洲城を占取し,ここに本拠を移した。
永禄2(1559)年に岩倉城を略取して尾張を統一,翌年5月には東海3国を傾けて上洛途上にあった今川義元を桶狭間に急襲して敗死させた。その後は,今川氏の支配を脱して三河で自立した松平(徳川)家康と同盟して背後を安全にし,もっぱら西方を窺った。同6年小牧に本城を移し,同10年8月には美濃井ノ口(岐阜)城を斎藤竜興より奪取してこれに移っている。同年11月の正親町天皇の綸旨は信長の戦勝を鼓舞する内容で,「天下布武」の朱印使用とあいまってこのころ統一の野望を固めたものと推測される。翌年9月,足利義昭の依頼を奇貸として上洛の軍を進め,畿内の三好三人衆を討って同26日義昭を奉じて入京,室町幕府再興を表に立てながら,実質的には五畿内を間接支配する「天下人」となった。
その後義昭,浅井,朝倉,六角,一向一揆などの反織田同盟,武田信玄の西上,義昭の蜂起など畿度か危機に陥ったが,そのつど勅命講和という天皇の調停により切り抜け,天正1(1573)年7月には幕府を倒壊させ,同年末までに浅井,朝倉を滅ぼして畿内近国を直接支配下に置いた。
次いで一向一揆の弾圧に向かい,同2年伊勢長島を,翌年越前加賀をそれぞれ討滅し,同8年には石山本願寺を勅命により退去させた。
この間,同3年には長篠の砲弾戦で武田勝頼に圧勝し,2年後には大和の松永久秀,翌年には播磨の別所長治,その翌年には摂津の荒木村重と反旗を翻す大名を次々と滅ぼし,武田信玄,上杉謙信という2大強敵は病魔に侵され戦わずして姿を消した。
天正4年近江安土に築城して同地に移り,同10年には甲斐に進出して勝頼を敗死させ上野以西を版図に加えた。そして残る毛利氏を討つべく入京した信長は,6月2日未明,腹心の明智光秀の謀反によって本能寺に倒れた。49歳。
さて信長の政策は岐阜,安土など新しい城下町に楽市を設定し,関所を撤廃して商工業の誘致を図り,各領国版図に指出検地を行なって武士や寺社と新しい領有関係に入らんとするものであったが,その評価を巡っては中世的,近世的と学界でも見解が分かれている。
宗教に関しては,山門焼打ち,一向一揆の虐殺,安土宗論,高野山の弾圧など旧仏教諸派を敵に回したが,キリスト教には理解を示した。天正9年には安土城内に摠見寺を築き,自らの神格化を図っている。
信長にとって最大のアキレス腱は天皇の存在であった。安土入城以降,陰に陽に正親町天皇を圧迫して譲位を迫ったが果たさず,最晩年に自らの将軍任官を天皇に願い出たとは皮肉であった。性酷薄で癇癪持ちのところであり,功臣を小過で追放したりしたことが光秀の謀反につながったとの見方がある。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」