徳川家定(とくがわ いえさだ)1824年5月6日(文政7年4月8日)〜1858年8月14日(安政5年7月6日)
徳川13代将軍。
12代将軍家慶の子,母は跡部氏美津。天保8(1837)年世子に定められ,同12年西ノ丸に移る。
嘉永6(1853)年6月家慶が死去,同年11月将軍宣下を受といわれ,また子を得なかった。
安政4(1857)年10月アメリカ総領事ハリスを江戸城内に引見,この前後より将軍の継嗣選定が問題となり始める。
一方の候補は徳川宗家と血脈の近い紀州藩主徳川慶福(家茂),他方は徳川(一橋)慶喜で尾張藩主徳川慶恕,越前藩主松平慶永,薩摩藩主島津斉彬がこれを支持し一橋派を構成した。
翌年,老中堀田正睦が条約勅許を得ることに失敗したのちの4月,井伊直弼を大老に任じて幕政指導を委ねた。
5月1日,大老・老中を招集し,慶福を継嗣とする意向を伝え,6月25日公表。次いで7月5日,慶福の安全を図るため一橋派の大名を処分,翌日没した。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」