阿部正弘(あべ まさひろ)1819年12月3日(文政2年10月16日)〜1857年8月6日(安政4年6月17日)
幕末の老中。備後福山藩(広島県)藩主。
天保7(1836)年藩主の座につく。藩政については江木等水を登用して改革に当たらせ,また,江戸,福山に藩校誠之館を設立して教学の充実を図った。
同9年奏者番,寺社奉行を経て,同14年老中となる。時に25歳。以来,権力抗争の打ち続くなか15年にわたり老中の職にあった。「収拾の偉才」と評される所以である。
ペリー来航以降,大船建造の解禁,江戸湾・大坂湾防備の強化と兵器の江戸運送許可,日米和親条約の調印,講武所・蕃書調所の設立等々,外圧への対応政策を進めた。
かかる政策の推進は,これを川路聖菜,そしてペリーの来航以降海防掛目付に登用された永井尚志,岩瀬忠震, 大久保忠寛,木村喜毅らに委託した。
また,薩摩藩主島津斉彬,越前藩主松平慶永らの有力大名と協調を図り,前水戸藩主徳川斉昭に幕政参与を要請した。急進的な政策を遂行するには他からの協力と,これを正当化する威信を要するが,その威信を将軍家定および徳川一門の最長老斉昭に求め,改革を実現させた。
かかる政治姿勢は譜代門間層からの抵抗を招いた。
門閥層との妥を図って安政2(1855)年10月堀田正睦に老中再任を求め,主座を譲る。ハリスの江戸訪問と通商条約が日程に上り,これに照応して将軍継嗣問題が政治社会の争点になりつつあったさなか,病没した。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」