孝明天皇(こうめいてんのう)1831年7月22日(天保2年6月14日)〜1867年1月30日(慶応2年12月25日)
仁孝天皇の第4皇子に生まれ、天保11(1840)年立太子,弘化4(1847)年9月即位, 父天皇の遺志を受けて公家の学問所を創設, 学習院と命名した。
嘉永6(1853)年のペリー来航以来, 開国という新たな状況に直面し,困難な選択を強いられ続ける。関心は伝統の存続にあり,だから鎖国が望ましい。だが天皇としては多数意見を尊重しなければならぬ。
安政5(1858)年2月上洛の老中掘田正睦が条約調印の承認を求めたとき,諸大名の意見を聞いたうえで判断するとして許可を与えなかった。同6月幕府が独断で調印を行ったとの報告に接し譲位を表明。8月, 井伊直弼の幕政指導に不信を示す,いわゆる茂午の密勅を水戸藩および幕府に伝達。9月老中間部詮勝が入洛,浪士に始まった捕縛が公家におよびそうになり,12月鎖国の状態に引き戻すことを条件に条約調印を了承した。
桜田門外の変ののち,安藤信正・久世広周らの幕府の数度にわたる要請を受け,将軍徳川家茂と皇妹和宮の婚姻を承認。
文久1(1861)年長井雅楽の「航海遠略策」を受理。
翌2年5月島津久光の献策を容れて勅使大原重徳を江戸に派遣, 10月薩長土3藩主の要請に基づき三条実美,姉小路公知を正副の勅使として派遣し幕府に攘夷を督促。
翌3年長州藩の建議を受け,折から上洛中の家茂を従えて賀茂社へ行幸, 237年ぶりの行幸だった。石清水社行幸を経て大和行幸が計画され始めるとことの成り行きに不安を抱き、これを朝彦親王に伝え,8月18日の政変を承認。次いで翌元治1(1864)年1月再度上洛した家茂に公武一和の協力を命じた。
同年7月禁門の変の直後,長州追討を命じた。
翌慶応1(1865)年9月幕府の要請を受けて長州再征を許可。10月徳川慶喜の強要を容れ条約を許可, ただし兵庫開港は不可とした。翌年の暮れ,にわかな病を得て死去。38歳であった。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」