勝海舟

勝海舟(かつ かいしゅう)1823年3月12日(文政6年1月30日)〜1899年(明治32年)1月19日

幕末・明治期の幕臣、政治家。通称「勝麟太郎」。昇進して安房守を称したが明治維新後に安芳と改称し、これを戸籍名とした。

海舟は号。下級幕臣の長男として江戸に生まれた。従兄に剣聖男谷精一郎

安政2年(1855年)から幕府の長崎海軍伝習に参加してペルス=ライケンやカッテンデイケの教えを受けた。安政6年帰府すると軍艦操練所教授方頭取に。万延1年(1860年)には咸臨丸の事実上の艦長として太平洋を横断。文久2年(1862年)幕政改革の一環として軍艦奉行並に抜擢された。翌3年4月には将軍徳川家茂の大坂湾視察を案内して神戸海軍操練所設立許可を取り付け、これを幕府と西南諸藩「一大共有之海局」に仕立て、さらに欧米の侵略に対抗する東アジアの拠点に育て上げようとの構想を持った。

元治1年(1864年)5月に神戸操練所発足。それとともに正規の軍艦行に昇り、坂本龍馬などを育成した。しかし、同年7月の禁門の戦争以降の幕権保守路線に抵触し、10月に江戸への召還命令により戻ると軍艦奉行を罷免され、寄合入りした。慶応2年(1866年)第2次征長戦争に際して軍艦奉行に復任し、会津・薩摩間の調停や長州との停戦交渉に当たる。

明治1年(1868年)鳥羽伏見で敗れた徳川慶喜の東帰後は陸軍総裁に昇り、軍事取扱に転じて旧幕府の後始末に努め、東征軍の江戸総攻撃予定日の前夜に西郷隆盛と談判して戦闘回避に成功した(江戸無血開城)。

一時は徳川家と共に駿府(静岡)に移ったが、新政府の相談に与って東京に出ることが多く、明治5年には海軍大輔、同6年10月の政府大分裂のあとは参議兼海軍卿に任じた。しかし翌7年の台湾出兵に不満で辞任し、以後明治10年にかけて完全に在野で、西郷隆盛の復権運動などにかかわった。20年伯爵、21年枢密顧問官。明治政府の欧米寄りを批判し続けて清国との提携を説き、日清戦争には反対だった。足尾鉱毒事件を手厳しく批判し田中正造を支援した。

出典:新潮社「新潮日本人名辞典」朝日新聞社「日本歴史人物辞典」