西郷隆盛(さいごう たかもり)1828年1月23日(文政10年12月7日)〜1877年(明治10年)9月24日
明治維新の元勲。薩摩藩士。軍人、政治家。
鹿児島の下加治屋町に薩摩藩小姓組西郷吉兵衛の長男として生まれる。幼名は小吉、諱は隆永、のちに隆盛。
安政1年(1854年)、藩主島津斉彬の庭方役に抜擢され江戸で政治的手ほどきを受け、条約問題、一橋慶喜将軍擁立運動に奮闘。だが大老井伊直弼の登場で一橋派は敗北し、同年7月には斉杉が病没したため絶望、同年11月鹿児島錦江湾に僧月照と投身したが西郷のみ蘇生、奄美大島に流された。
文久2年(1862年)1月召還されて島津久光の朝幕周施に働くが、久光に疑われ失脚、沖永良部島に監禁された。
元治1年(1864年)に赦免され、軍賦役、小納戸取締となり上京。慶応1年(1865年)以降、幕府中心主義克服の道を模索、2年1月、土佐藩浪士坂本龍馬らの仲介を得て、薩長秘密同盟(薩長同盟)を締結。同年年末から翌3年1月の四侯会議で雄藩連合政権の結成を目指し奔走したが失敗。10月14日には倒幕の密勅が薩長両藩に降下したが、同日将軍慶喜は大政奉還上表、翌日勅許された。その後も倒幕の機会を執拗に追求。王政復古のクーデターで旧幕府側を挑発、慶応4年1月3日、京都に進軍する旧幕府軍を鳥羽・伏見の戦いで撃退した。2月、東征大総督府参謀に就任。3月、勝海舟との会談で江戸無血開城に成功。しかし彰義隊掃討戦(5月)のころから軍事指導権を長州の大村益次郎に奪われ、鹿児島に帰郷。
明治2年(1869年)2月に藩参政に就任。凱旋将兵の主張に沿って門閥打破、大規模常備軍の編成を柱とした藩政改革を推進。また東京政府を公然と批判した。
明治3年暮れ、鹿児島に下向した勅使岩倉具視に、西郷は政府改革のいくつかの条件を認めさせ、翌4年1月に上京。同6月には提案した御親兵の編成が成り、参議に就任、廃藩置県の密議に賛同し成功に導いた。
岩倉使節団が米欧に派遣された際は、筆頭参議として留守政府を総理。外遊派は、新規事業と政府首脳部人事の凍結を西郷に誓約させたが、留守政府では各省が学制、徴兵制度、地租改正などの重要政策実現に邁進した。
5年7月、陸軍元帥兼参議兼近衛都督に就任。華々しく推進される欧化主義的な諸施策に西郷は不満で現状打破を望むようになった。そこに懸案の日朝国交問題が緊迫、6年6月の討議で西郷は、自ら朝鮮に出張し、解決に当たりたいと非常な熱意で要望した。8月閣議はいったん西郷使節朝鮮派遣を決定、裁可されたが、発令は岩倉使節団の帰国後とされた。10月、閣議は改めて西郷派遣を決定したが、参議大久保利通は猛烈に反対論を主張、岩倉具視、参議木戸孝允、参議伊藤博文らが大久保を支持して連袂辞職を表明、対策に窮した太政大臣三条実美は急病を発して政務処断能力を喪失。同23日、岩倉が太政大臣代理となり先の決定を覆し、使節派遣は中止された。即日、西郷は下野し、25日、板垣退助、後藤象二郎らも下野。征韓論政変である。
鹿児島に退去した西郷を追って薩摩出身の近衛士官、兵の多数が天皇の制止も聞かずに鹿児島に引き揚げた。7年6月に士族の教育、軍事訓練、開墾事業を推進する機関として鹿児島に設立した私学校の経営を腹心の桐野利秋、村田新八らに委ねて、西郷は悠々自適を決め込んだ。
私学校党は鹿児島県政を掌握して、県官任免、剥制整理、地租改正、徴兵制という政府の主要な政策を拒絶し、隠然半独立国の形勢をなした。対外的危機の到来を待って、内政大改革におよぼうと待機していた。
明治10年(1877年)、西郷は政府の挑発に激怒する大勢に押されて武力反乱の先頭に立つに至り、敗北。9月24日、鹿児島城山に自刃して果てた(西南戦争)。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」,新潮社「新潮日本人名辞典」