豊臣秀頼

豊臣秀頼(とよとみ ひでより)1593年8月29日(文禄2年8月3日)〜1615年6月4日(元和1年5月8日)

豊臣秀吉の第2子。

母は側室淀殿(浅井氏)。文禄2(1593)年8月大阪城内に生まれ,幼名拾。

当時秀吉は甥秀次を関白としていたが,拾誕生の翌9月には,日本国を5分してその1分を拾いに与える案を示し,秀次の娘との婚約を命じた。同4年4月拾は伏見城に移され,秀次はまもなく高野山に追われ,切腹して果たした。秀吉は前田利家を拾の守役とし,五大老・五奉行らに拾への忠誠を誓わせた。

慶長1(1596)年5月参内して従五位下に叙爵,12月秀頼と改名。同2年9月禁中で元服,従四位下左近衛権少将に叙任,さらに権中将に進む。同3年7月,秀吉は病床で重ねて大老・奉行らに秀頼への奉公を誓わせ,8月の臨終には徳川家康以下の大老に秀頼の補佐を遺言。時に秀頼6歳。秀吉の遺命に従って同4年伏見から大阪城に移った。翌5年の関ヶ原の戦後も表面的には豊臣家2世秀頼の地位は変わらず,権大納言,正二位に上っている。が,同8年家康が開幕すると,秀頼は摂津・河内・和泉65万石余の一大名の地位に転落。

その後も家康は世間の感情を意識して子秀忠の千姫を秀頼に嫁がせ,同10年には右大臣に推挙したりもするが,同16年,京都二条城で秀頼と会見したころから豊臣家の討滅を考えるようになる。これは立派に成人した秀頼に脅威を抱いたためといわれている。そして同19年,家康は,秀頼が方公寺大仏殿を再興した際鐘銘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の2句に,「家康」を切って豊臣の世を楽しむの含みありとして大阪城を攻囲(冬の陣)。いったん講和して豊臣方の防備を弱めさせたうえで元和1(1615)年5月再びこれを攻囲した(夏の陣)。

城は5月8日に陥落,秀頼は生母淀殿と共に自害した。享年23歳。秀頼の側室に生まれた男子国松は京都で捕われて処刑され,女子は鎌倉東慶寺に入り尼僧となった。豊臣家はここに滅亡する。なお『名良洪範』によると,秀頼は身長6尺5寸(約197㎝)の巨漢であったという。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」