浅野長政

浅野長政(あさの ながまさ)1547年(天文10年)〜1611年5月19日(慶長16年4月7日)

戦国・江戸前期の武将。

通称は弥兵衛尉,名ははじめ長吉。尾張国春日井郡北野の安井弥兵衛尉重継の長男として生まれたが, 母の兄に当たる浅野文右衛門長勝に男子がなかったため,長勝の養女だったややと結婚,浅野家を継いだ。長勝のもうひとりの養女が秀吉の妻となったねねで,秀吉と長政は相婿の間柄となる。

はじめ織田信長に仕えたが,まもなく秀吉に仕えるようになり,天正1(1573)年, 秀吉が浅井氏滅亡後その遺領を与えられたとき,近江で120石の知行を与えられている。

同10年(11, 12年説もある)8月, 杉原家次と共に京都奉行を命ぜられ,家次が病気になって前田玄以と交代したあと,長政, 玄以のふたりが禁裏御領や門跡領などの複雑な問題を処理し、また同年、太閤検地のはじまりとされる山城国検地の奉行も務めており,秀吉の内政面を裏方で支える存在であった。

同11年の賤ヶ岳の戦後, 近江の甲賀・栗太2郡の内に2万300石を与えられ,翌年,近江坂本城と大津城を預けられた。

同15年には若狭一国8万石を与えられて小浜城主となり,翌16年には従五位下・弾正少弼に叙任された。

文禄の役では,肥前名護屋城の普請を分担し,また軍監として渡海。このとき同じく軍監として渡海していた石田三成と対立し,以後,三成とは不和になった。

文禄2(1593)年, 甲斐で22万5000石を与えられ, 甲斐府中城主となったが,このとき家督相続の意味もこめて子幸賃に16万石を与えている。

慶長3(1598)年, いわゆる五奉行となったが,徳川家康と囲碁を通して親交があったことなどから増田長盛の護訴によって甲斐に閉居させられ,関ヶ原の戦のときには,子幸長と共に東軍に属した。

民政手腕にすぐれ,秀吉時代の播磨の領民や, 甲斐の領民からその遺徳を慕われた。また囲碁を特に好み,しばしば共に盤を囲んだ家康は長政没後,囲碁を絶ったと伝えられる。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」