井伊直弼

井伊直弼(いい なおすけ)1815年11月29日(文化12年10月29日)〜1860年3月24日(万延1年3月3日)

幕末の彦根藩(滋賀県)藩主,大老。

直中の14男,母は側室お富の方。17歳で父を失う。時の藩主は長兄直亮,世子は兄直元。部屋住となり,城を出て北の屋敷に移る。ここを埋木舎と命名,「世の中をよそに見つゝもうもれ木の埋れてをらむ心なき身は」と詠じた。

曹洞弾を修行して印可証明,居合術,兵学,茶道を学ぶ。本居派の国学に関心を寄せ,長野主膳(義言)との交流が始まった。直元の没後世子に立てられ,嘉永3(1850)年に直亮が死去し藩主となる。井伊家は高い官位と35万石の大封を与えられ江戸城中の詰所は溜間,常に幕政に参与し得る譜代筆頭の格式。

ペリー来航に際し当初より積極的な海外雄飛論を唱え,以後一貫してこれを主張。時の将軍は徳川家定。病弱で子がなく,ここに将軍継嗣問題が発生,一橋家当主徳川慶喜の擁立を図る家門・外様の有志大名に対抗し,譜代筆頭の立場から宗家と血脈の近い紀州藩主徳川慶福(家茂)を推した。

安政5(1858)年2月,日米修好通商条約の承認を朝延に求めるため堀田正睦が上京,長野主膳を派遣して裏面工作に当たらせた。だが堀田は承認を得ることに失敗,加えて一橋派の工作もあり朝延から慶喜擁立の意向を伝えられた帰府。その直後の4月大老となる。改めて朝延の承認を得ようとするが情勢は切迫,6月条約調印を断行,次いで慶福の継嗣決定を公表,7月5日その双方に抵抗した尾張藩主徳川慶恕,越前藩主松平慶永を隠居・謹慎に,徳川斉昭を謹慎,慶喜を登城禁止に処した。慶福の安全を図って,反対派の徳川一門を政治社会から追放したのである。

幕府の態度に反発を募らせた朝延は,同8月,いわゆる戊午の密勅を水戸藩,次いで幕府に伝達した。それを水戸の策謀とみて対処に着手。老中間部詮勝に上洛を命じ,関係の志士,公家の家臣の逮捕と朝延への説得工作に当たらせた。同年12月,朝延は鎖国への復帰を前提に条約調印を承認。

翌安政6年4月,朝延に強要して,近衛忠煕,鷹司政通,同輔煕,三条実万を落飾・謹慎とし,次いで厳酷の方針で断罪を進めた(安政の大獄)。処罰された者69名,うち死に処せられた,者8名,監禁中自殺または病没した者6名。斉昭に国許永蟄居,慶喜に隠居・謹慎を迫罰,土佐藩主山内豊信に隠居の内命を下した。前後して永井尚志,岩瀬忠震ら慶喜擁立を望んだ幕臣を処分,さらにこの断罪に隠便論を唱えた間部詮勝らを追放。三家,新藩・外様の大大名と五摂家の公家を処分して巨大な権利を手にする反面,孤立の途をたどる。

そして翌万延1(1860)年3月3日雪の朝,上巳の節句の式に出席のため登城の途次,桜田門外の路上で水戸・薩摩の浪士に襲われ殺害された。斬奸趣意書には「北条・足利の幕横に均しく」「共に天を戴かざる国賊」などの文字が躍っていた。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」