石田三成

石田三成(いしだ みつなり)1560年(永禄3年)〜1600年11月6日(慶長5年10月1日)

安土桃山時代の武将。

幼名三也,通称佐吉。正継の子で正澄の弟。近江国(滋賀県)坂田郡石田村の出自。羽柴(豊臣)秀吉の長浜領主時代,15, 6歳で近侍したと推定される。官は治部少輔, 従五位下から従四位下に昇る。

本能寺の変後,山崎合戦(1582), 賤ケ岳の戦(1583)に従軍, 天正13(1585)年秀吉の関白任官に伴い12人の諸大夫の内に入り直属吏僚として頭角を顕わす。翌年堺奉行。15年の島津征討では従軍し兵站の任に当たるとともに博多の復興に努め,島井宗室,神屋宗湛らと親交を結んだ。

天正18年以降の関東奥州征服では成田氏長の守る武蔵忍城攻めに失敗し,軍事の不得手を表した。なお千利休切腹事件では利休の娘を炮責めにした記録があり,三成を利休排斥の黒幕とする説もある。

天正19年近江佐和山城主,21万石を領す。

翌文禄1(1592)年の朝鮮出兵では舟奉行として名護屋(佐賀県鎮西町)に駐屯,秀吉渡海を主張したが,それが正親町上皇の諭止で中止されると自身代官として朝鮮に渡り,増田長盛, 大谷吉継らと明国との和平交渉に当たる。

文禄4(1595)年豊臣秀次事件では残忍な追及側に立ち, 五奉行の一員に任じた。慶長2(1597)年再び朝鮮に遠征軍が派遣されたが(慶長の役),翌年8月秀吉の死後博多において派遣軍の撤収事務に当たる。この間,加藤清正,黒田長政ら武人派との対立を生じ,慶長4年,加藤,黒田ら7人の武将の襲撃を受けるが,徳川家康にかくまわれて難をのがれ佐和山に逼塞。

慶長5年,上杉家老臣直江兼続と結んで家康の東下を誘い,大垣城に出て関西の豊臣方の武将らを集め,毛利輝元を盟主に家康に反旗をひるがえし9月15日に天下分け目の関ヶ原の戦を挑んだ。

初め優勢であった西軍だが,小早川秀秋の内応で総崩れとなり,三成は逃れようとしたが,近江伊香郡古橋村(木之本町)で捕らえられ,六条河原で処刑された。

検地尺や検地条目制定にみられる如く,秀吉家中屈指の能吏であり,文化的に高い教養を持った人物であったが,性酷薄で苛察を好み,人望を失った。

出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」