徳川家康(とくがわ いえやす)1543年1月31日(天文11年12月26日)〜1616年6月1日(元和2年4月17日)
武将。江戸幕府初代の将軍。
三河国(愛知県東部)岡崎の城主松平広忠とお大(水野氏)の子。幼名は竹千代。松平氏は西三河の大名で,駿府(静岡県)の今川氏に従属していた。
6歳で今川氏に人質として送られる途中,奪われて尾張(愛知県西部)の織田信秀のもとに送られたが,2年後に返還され,19歳までを駿府で過ごした。
永禄3(1560)年桶狭間の戦いの前日,5月18日には,敵中に孤立した大高城に兵糧を入れることに成功して武名を挙げ,戦後に今川氏から孤立して,翌年には織田信長と和睦した。同6年には,今川義元からもらった元康の名を,家康と改めた。同年に勃発した三河の一向一揆を翌年には鎮圧し,次いで東三河を勢力圏に入れた。同9年に,松平を徳川に改姓し,源氏の名門である新田氏の一族得川氏の子孫と自称した。同11年から,甲斐(山梨県)の武田信玄と連絡をとって,今川氏を攻め、遠江(静岡県西部)に進出して,元亀1(1570)年には,浜松に本拠を移した。同年,織田信長に協力して,姉川の戦いで浅井・朝倉両氏に勝ったが,同3年には,浜松の北方の三方ヶ原で武田信玄の軍に敗れた。しかし信玄の没後,子の武田勝頼の軍を天正3(1575)年の長篠の戦いで,織田と共に破り,同10年3月には,同じく信長の元で武田氏をほろぼし,駿河国(静岡県中部)を領国に加えた。同年6月の本能寺の変に際しては,和泉国(大阪府)境から間道を経て帰国し,次いで信濃国(長野県)南部と甲斐国に出兵して,ここも領土とした。同12年には,羽柴(のち豊臣)秀吉と対立した織田信雄を援助して,尾張に出陣し,小牧・長久手の戦いで勝利を得た。こののち,秀吉と和睦しまた駿府に本拠を移したが,同18年に後北条氏がほろびると,秀吉の命により関東地方に移って,江戸を本拠として定めた。
豊臣政権下で最大の大名として,250万石を領し,やがて秀吉の没後,五大老の筆頭として勢力を伸ばし,ついに慶長5(1600)年関ヶ原の戦いに勝って,武家政権の代表者となり,同8年には朝延から征夷大将軍に任ぜられて,江戸に幕府を開いた。同10年に将軍職を子の秀忠に譲ったのちも,駿府にあって全国的な政務を統轄(大御所),対外的には,朱印船貿易を推進するとともにともに,長崎での交易を統制し,また同14年には朝鮮との国交を回復した。同19年と翌元和1(1615)年の大阪の陣によって豊臣氏をほろぼし,次いで武家諸法度を制定して,幕府の基礎を固めた。
元和2年,駿府で病没。神式によって久能山に葬られたが,同3年に東照大権現の神号が敕許されて,日光の東照宮に改葬された。家康は正妻を早くに失い,15人の側室に10男5女を生ませた。幼少のころに不遇を経験したため,忍耐力に富み,また状況に対応する的確な判断力を備えて,諸大名の信望を集めた。狡猾な策謀家とみられたこともあるが,それは正しい評価ではなく,むしろすぐれた現実主義者であったといえる。
出典: 朝日新聞社「日本歴史人物辞典」